バレンタインデーと言えば、女性から男性にチョコレートを贈る日。
そして女性から男性に告白する日。
基本的にはそのような認識でしょうか?
まあ現代では女性から告白するのは特別なことではないと思いますが。
でもこのような習慣は日本独自のものなんですって。
しかも1970年代くらいからの比較的新しい習慣です。
バレンタインデーは世界的なもので、広く「愛の日」と考えられています。
しかし、国や文化によってバレンタインデーの習慣は様々なのです。
そんなバレンタインデーにまつわるお話をお届けいたします。
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バレンタインデーの由来・起源
バレンタインデー(St.Valemtine’sDay)とは「聖バレンタインの日」という意味。
つまりバレンタインさんは聖人であり、人の名前なのです。
さて、バレンタインデーの由来ともなったバレンタインとは、どういう人だったのでしょうか?
実在の人物かどうかははっきりしないのですが、伝えられているエピソードは以下のようなものです。
聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)の伝説と投獄
時はローマ時代。3世紀の頃。
ローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、愛する家族がいると兵士たちが戦争に行きたがらず、士気が下がるという理由から、兵士たちの結婚を禁止していました。
キリスト教の司祭・聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)は、そんな兵士たちを気の毒に思い、
内緒で結婚式を行っていました。
ウァレンティヌスは、結婚したカップルには自分の庭から摘んだ花を贈ったと伝えられています。
しかし、そのうち皇帝の知るところとなり、皇帝は、ウァレンティヌスに結婚式を止めるように命令しました。
しかし、ウァレンティヌスは命令に従わず、投獄されることになってしまいます。
当時のローマはミトラ教が全盛の時代。
キリスト教は公には信仰が認められていない、いわば禁教でした。
ウァレンティヌスに厳しい対応がとられたのは、そのような事情もあったのでしょう。
改宗を迫られたとも言われています。
聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)の殉死とバレンタインカード
さて、投獄されたウァレンティヌスはどうなったかというと。
牢獄の看守の召使の娘は、子供の頃から目が見えませんでした。
彼女はウァレンティヌスが投獄されていると聞き、キリスト教の説教を受けるようになりました。
するとウァレンティヌスの祈りから奇跡が起き、娘の目が見えるようになったのです。
この奇跡に娘の家族は感銘を受け、当時禁止されていたキリスト教に改宗しました。
この一連の出来事を聞き、皇帝クラウディウス2世は激怒します。
そしてついにウァレンティヌスは処刑されてしまうのです。
ウァレンティヌスが処刑され、殉教した日は、西暦269年2月14日と言われています。
処刑の前日、ウァレンティヌスは、娘に一通の手紙を送りました。
手紙の最後には次のような言葉が添えられていました。
From Your Valentine
あなたのヴァレンタインより
特ににアメリカなどでは、バレンタインデーにカードを贈ることが多いのですが、この「From Your Valentine」という言葉を添える習慣があります。
このことは、ウァレンティヌスが娘に送った手紙が由来となっているとされます。
また、バレンタインデーにカードや手紙に添えられる告白のフレーズとして「Be My Valentine(私の特別な人になって)」という表現もよく使われるようです。
バレンタインデーとルペルカリア祭の関係
2月14日は古くから家庭と結婚の女神・ユーノーの祝日でした。
翌15日は、ルペルカーリア祭という豊年のお祭りの始まりの日。
この時、男女をカップリングするくじ引きがありました。
14日に女性は、名前を書いた札を桶の中に入れ、翌日男性がそれを引くというものです。
ここでカップリングされた男女は祭りの間一緒に過ごします。
そのまま恋に落ち、結婚する男女も多かったと言います。
今の感覚で考えると無茶なんですが、お見合いみたいなものだったのかもしれませんね。
ともかく2月14日はもともと愛に関連した日であり、このルペルカーリア祭の風習が、バレンタインデーの源流とも言われています。
聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)が2月14日に処刑されたのは偶然ではなく、ルペルカリア祭に捧げる生贄とされたということです。
こうして、ルペルカーリア祭の風習と聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)の伝承が重なって、バレンタインデーにつながるのです。
聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)は、後に愛の守護聖人とみなされるようになっていきました。
バレンタインデーが祝われるようになった経緯
聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)が守護聖人となったのは、200年以上たった496年のこと。
そのころにはキリスト教はローマの国教となっていました。
若者たちの性の乱れを憂えた教皇ゲラシウス一世は、民間に広く根付いていたルペルカーリア祭の風習を禁止しました。
男女をカップリングするくじを引く代わりに、聖人の名前のくじを引き、それに倣った生き方をするように奨励するというもの。
この時に聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)は、新たな行事の守護聖人となりました。
このことには、異教で本来排除すべきだったルペルカーリア祭の伝統をキリスト教に取り込むという政治的意図が透けて見えるのです。
こうして民間に根付いていたルペルカーリア祭は、聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)の祭りとして再解釈され、形を変えて継続しました。
実際に聖バレンタインが愛の守護聖人として語られ、2月14日が恋人たちの日として、愛の告白や贈り物をするようになったのは、中世以降のことだそうです。
一説には2月14日は、春の始まりで小鳥がさえずり始める頃なので、愛の告白にふさわしいと考えられたとか。
14~5世紀頃には、主にイギリス、フランスなどを中心に、聖バレンタインは「恋人たちの守護聖人」、バレンタインデーは「恋人たちの日」として親しまれるようになってきました。
イギリスを中心に18世紀までには男性がカードを送る、恋人や夫婦がバレンタインカードを交換するという風習も広まってきました。
以後、欧米では、プレゼントの交換なども行われるようになります。
国や文化による違いはありますが、主に男性から女性へ愛を伝える日、贈り物をする日というニュアンスの方が強いようですね。
聖バレンタインは、聖人ではない?
バレンタインデーは、現在ではキリスト教の公式な祝日ではありません。
カトリックでは、第2バチカン公会議後1969年に典礼改革が行われ、歴史的に実在が疑われる聖人は、整理されてしまったのです。
カトリック百科事典によれば、聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)という人は、特定の実在人物というわけではなく、三人の人物像が重なってい形成された人物像と考えられています。
すなわち、聖バレンタインはカトリックの聖人というわけではないのですね。
日本のバレンタインデーの歴史
バレンタインデーは恋人たちの日としてカードや贈り物をする習慣は、世界各地で見られますが、「女性から」とかチョコレートを贈るという風習は、日本独特のものです。
よく、「お菓子業界の陰謀」とか言われますが、当たらずとも遠からず。
お菓子製造業の一連のキャンペーンが、その由来と言われています。
まず、戦前のこと。
1936年に神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ)が、「あなたのバレンタインにチョコレートを贈りましょう」というコピーで新聞広告を掲載しました。
ここでいう「バレンタイン」は、アメリカなどでカードを贈るときによく使われる、「恋人、大切な人」の意味です。
これが日本で最も古いバレンタインデーとチョコレートの広告とされます。
1958年にはメリーチョコレートカンパニーが、伊勢丹新宿本店でバレンタインセールを行いました。
1960年には、森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、また1950~60年代には、都内デパートがバレンタインフェアや新聞広告を出す動きが見られました。
いずれにしてもこれらの広告やキャンペーンが、直接バレンタインデーの普及につながったとは必ずしも言えないでしょう。
しかし、1970年代くらいまでに日本のバレンタインデーは、女性から男性にチョコレートを贈る日として浸透していきます。
この風習は、主に小学校高学年から高校生までの女子学生から広まったようですね。
1970年代後半にはチョコレートの売り上げも急増しました。
さらに1980年代には義理チョコ、ホワイトデーが普及しました。
これも日本独自の風習です。
現在では日本のチョコレートの年間消費量の2割程度が、2月14日に消費されるほどの一大イベントとなっています。
最近では「義理チョコ」は衰退傾向にありますが、「友チョコ」「逆チョコ」「自分チョコ」「強敵(とも)チョコ」など様々な広がりを見せています。
最近は小学生の手作り友チョコが流行して、お母さんが悲鳴を上げているなんて言う報道もされていました。
国や文化によって様々な風習がみられるバレンタインデーですが、いずれにしても大切な人に心を込めてプレゼントを贈るというのが基本ですね。
今年は夫とチョコレートケーキでも食べましょうか、と思っています。